2025.06.25
中村 悦子 さん(医療法人なかむら眼科理事長)|活躍する卒業生
岩手大学教育学部を卒業後、医師を目指して医学部へ
父の仕事の関係で私は小学6年生の時に茨城県から神奈川県へ、高校2年生の時に神奈川県から青森県に転校しました。見知らぬ土地に行くとやり直せる気がして、私は転校が大好きでした。青森県から一番近い国立大学の旧一期校として岩手大学がありました。 教育学部を選んだのは、小学校の担任の先生に可愛がられ、その後、出会った先生たちも尊敬できる方が多く、将来の職業として教職以外は考えていません
でした。しかし大学に入学して間もなく、父が医師にしたいと期待していた弟が不慮の事故で亡くなってしまいました。そこで父から私に改めて医学部受験を持ち掛けられたのですが、その頃はなかなかその気に
なれませんでした。しかし、卒業が近くになり、人生をやり直してもよい気がしてきて、卒論と並行して受験勉強に突入しました。その頃は両親も神奈川県に戻っており、私も親元で過ごしていました。もう一つの大学に行くのですから、岩手大学の卒業式には出席するつもりはありませんでしたが、もし医学部に入れなければ大学の卒業式というものを味わえないかもしれないという思いが募り、卒業式の前日、急遽母とともに夜行列車で盛岡に向かいました。宿の予約もしておらず、未明にタクシーで移動しました。近所に運よく美容室があり、長くしていた髪を結い、着付けをしてもらい、無事に卒業式に間に合いましたが、到着時にはせっかくの髪はだいぶ崩れていました。忘れられない思い出です。
高校卒業後の受験生とともに都内の予備校にも通いました。その頃、埼玉医科大学が新設され、二浪した後、入学することができました。同じように他大学経験者が何人もいて、私たちは「長老グループ」と言われていました。「入学式の新入生の席になぜ保護者がいるのかと思った」と、からかわれたり、ちょっぴり敬われたり、それなりにまた楽しい学生時代を過ごしました。私は、年齢や性別にあまり拘りがないから、いろんなことに挑戦できたのかもしれません。
社交ダンス同好会の思い出
岩手大学時代に熱中したサークル活動はありませんが、小学校課程に所属していたメンバーで立ち上げた社交ダンス同好会は懐かしい思い出です。社交ダンスがお得意の教授のお宅の応接間で教えていただいたのが最初です。市内のダンススタジオで練習するために夜な夜な出かけていました。仲間にはラテンでもモダンでもなんでもすごく上手な人もいましたが、運動も苦手な私はステップを覚えることもままならず、
途中でやめてしまいました。それでも、初心者の大会で4位を取ったのは良い思い出です。その頃のダンスパートナーとは今でもメル友です。
好きな仕事に就けたことに感謝
父は病院の事務長の仕事をしていましたが、戦争中は衛生兵でした。そのような中で、子どもを医者にしたいという夢を弟に託していたんですね。親には一番従順だった弟が、青森行きにかなり抵抗し、父もかなり迷ったようですが、結局は連れて行きました。その結果、事故で亡くしてしまったのですから、ずいぶんと自分を責めたようです。弟の事故がなかったら、私は教師になって、今頃は定年後ののんびり
した生活を送っていたかもしれません。しかし、私は今の仕事が好きですし、このような状況でいられることに満足しているんです。医学部へ進むことを提案してくれた父に感謝しています。
眼科を開業してから40年が経ちました。この間、開業した当時と同じ時間割で、ほとんど病気で休むこともなく、ずっと一人でやってきました。昨年9月からは大学病院の先生にお手伝いに来てもらっていますが、これからも、まだまだ仕事を続けて行けたらと願っています。
有意義に使ってもらえるところに サポートを届けたい
岩手大学へ初めて寄附をしたのは2022年ですが、実は寄附募集のパンフレットが届いたことがきっかけだったと思います。今後も多くの方に寄附の案内を届け、より多くの方からご寄附をいただけたら良いで
すね。
私は働ける間は、必要なところに支援を届けたいと思っています。2024年1月の能登半島地震では古河市からふるさと納税と日本医師会からの呼びかけで寄附をしました 。東日本大震災のときには、親を失った子どもの里親になり、希望の学校に行かせてあげたいと考えたりもしました。様々な条件があり、里親になることは断念しましたが、何か助けになりたいと強く思いました。
私は、これからも有意義に使ってもらえるところにサポートを届けたいと考えています。
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